久方ぶりに南相馬へ。事故現場近くに踏みとどまる農家をお訪ねし、近況を聞いてきました。持参したタブレットでALPSがまた停止と言うニュースも知りましたが、汚染水に関するトラブルは日常化しておりもうこの位では話題にもなりません。

かつて立ち入り禁止のバリケードがあった原発から30キロの場所は、避難解除とともに往来自由になり、しかしパトカーがなぜか毎日張り付いているとのことです。しかもよく見れば「警視庁」、福島県警も巡回していますが「要所を押えるのは警視庁」とばかり6号線沿いに佇んでいます。
 この一帯の水田は未耕作のまま、まるで2011年の早春から時間が止まってしまったようで、津波で防風林も倒されているので東側には太平洋も望めます。まさに一桁国道の6号線からこのような光景を見るようになるとは想像もつきませんでした。
その6号線を北上して相馬市、従来は浪江町の酪農家の堆肥を使っていたと言う中島さん。ところが浪江町は全長避難を余儀なくされ酪農農家も牛を置いて逃げなくてはいけなくなりました。その酪農家から依頼され当方の農法の基準堆肥を使っていただいたのが1年前から。

相馬市で野菜を栽培する中島さんは84歳、終戦時は15歳で戦後は農業を営んできたとのこと。しかし今年の野菜の出来栄えは驚くほど、堆肥の力とはこのようなものかとつくづく思い知ったとのことです。 戦後、戦勝国からやってきた科学技術。重工業や精密機械そして化学肥料や農薬。それらは遅れた日本の産業を救うべく導入されてきましたが、それらを疑うことなく実践することが中島さん世代の近代化だったようです。 成果を上げた技術もあれば、ミスリードだったものもあり。あと10年若ければこの堆肥でやり直すのに、と言う事でした。原子力災害の現場を見つつ、科学技術の舵取りはまったく難しいと感じずにはいられませんでした。
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