港横浜から打って変わって「福島の里山」。都市と農村の交流事業を県から受託したNPOへ行きました。

被災地支援、援助と言いながら、IT大手に声をかけたものの「個人で行くなら」と、色よい返事はもらえず中小企業の団体から参加者を募ったツアー事業に呼ばれて行きました。 晩秋から初冬の佇まい、廃校を利用してNPOがイベントホールやパン工房、宿泊施設を設置したその名も「里山がっこう」。 田舎は田舎なりにがっばって、交流を支援する県も職員を参加させ「やる気」をみせています。

しかし原子力災害の爪痕は生々しく、すっかり晩秋の定番風景になった廃棄される干し柿原料。あれから何度目の秋か、いつみても切ない風景です。経済は生き物、何年か生産流通が遮断され、それが復活したとしても日本人の胃袋が増えるわけではなく、その間の代替えルート、商品が既に存在しています。さらに、放射能のイメージだけが残る被災地にとってそれらの克服は容易ではありません。 田舎の豊な自然や人情を求める「交流人口」に見せられた風景ではないのですが、紛れもない現実として、未だ横たわっている福島です。
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